過去最高に詰んだと思った瞬間 〜免許取り立ての友人と高速道路〜
「うわっ、これ、どっち行けばいいの⁉︎」
運転席の友人が、不安そうな声を上げました。
免許を取ったばかりの友人が運転する車で、高速道路を走っていたときのことです。進行方向にはY字の分岐が迫っていました。ところが、ナビは沈黙したまま。標識を確認しようとしましたが、情報が足りず、判断できません。
「うーん……え、わかんない……」
そう呟いた友人の手は、ハンドルを握ったまま動きません。迷った末にどちらも選択できず、そのままY字路の中央へ突っ込もうとしています!
「ちょっ……!!」

咄嗟に助手席の私が横からハンドルを切りました。
タイヤが軋み、車体が揺れ、後ろを走る車がクラクションを鳴らします。ギリギリのところで適切なルートに軌道修正しました。
「……危ない…!」
友人も私も、後部座席の友人も、全員が青ざめた顔で、Y字路のあとの路肩にそっと車を停車しました。(助手席でうまくガイドしなかった自分も悪かったので、友人のことは責められませんでした。)
あのとき、ほんの一瞬でも判断が遅れていたらと思うと、ゾッとします。運転を誤れば命に関わる――そう実感した瞬間でした。
免許を取ったばかりの友人にとっても、私にとっても、間違いなく「過去最高に詰んだ」と思った出来事でした。
迷ったとき、人は動けなくなる

このときの友人は、「間違えたら時間がかかる」「同乗者に迷惑をかける」ことを瞬時に意識したのだと思います。しかし、情報がない状態ではどうすることもできず、思考が停止してしまった結果、選択をしないという選択を取ってしまった(友人に選択をした自覚はなかっただろうが…)。
運転中には、こうした「予想外の事態」に直面することが少なくありません。たとえば、前の車が急ブレーキを踏んだとき、標識を見逃してしまったとき、歩行者が突然飛び出してきたとき——どの場面でも、瞬時の判断が求められます。
私自身、もし自分が運転していたら、同じように戸惑っていたと思います。正しい道を選ばなければならない状況で、確信が持てないまま決断するのは勇気がいるものです。こうした場面で迷い、動けなくなってしまうのは、決して珍しいことではないでしょう。
未来の運転と失われるもの
アメリカでは、すでに無人運転の技術が実用化されつつあります。テスラやWaymoの車が公道を走り、自動運転のタクシーを利用する人も増えています。
日本でも、2024年には特定の地域でレベル4の自動運転が解禁され、将来的には一般道路でも活用が進んでいくかもしれません。もし完全な自動運転が普及すれば、判断に迷うこともなくなり、事故のリスクも大幅に減るでしょう。
しかし、それと同時に、運転にまつわるさまざまな体験が失われる可能性もあるでしょう。
例えば、ドライブ中の何気ない会話や、道を間違えて思わぬ場所にたどり着くこと、友人とハンドルを握る緊張感を共有すること。そうした瞬間もまた、ひとつの「思い出」になるのではないでしょうか。

もちろん、自動運転には大きなメリットがあります。長距離運転の負担が減り、高齢者や障害を持つ人も自由に移動できるようになるかもしれません。さらに、AIが最適なルートを選ぶことで、渋滞が減り、効率的な移動が可能になるでしょう。
自動運転が広がることで、より安全で快適な移動が可能になる一方で、そうした体験が減っていくことには、少し寂しさを感じるかもしれません。
それでも、運転という行為自体に価値を感じる人も少なくないはずです。おーとが広まる一方で、あえてマニュアル車を選ぶ人がいるように、運転には「操作する楽しさ」や「自由に動ける感覚」などの楽しさもあるのです。
もし完全な自動運転が普及した未来、私たちはどんな選択をするのでしょうか。必要がなくなったとしても、「自分で運転したい」と思う人は一定数いるのではないか。そして、それは単なる移動手段ではなく、「体験としての運転」を求める気持ちなのかもしれません。

これからの未来、私たちはどのような「運転」を望むのでしょうか。より安全な社会を目指しつつも、人と人とのつながりや、移動の楽しさを残していけると、素敵ですね。
(とはいえ、心臓に悪い思い出の作り方は、できればもう勘弁してほしいですが……)

















